読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

睡眠のあいだに生きてる

ながい寝言です

ボランティアする人の顔は輝いてる

イヤミでなく。

 

あれは小学校1年生になったかなってないかの頃。

従妹の家に遊びに行った時の事。

その家はいわゆる低所得層住宅・被差別部落という場所にあった。簡単に言っちゃうとスラムみたいな場所。まあ色々なものをあそこで見たなあというのは覚えてる。

 

そこへ普段見慣れない若いお兄さん・お姉さんが4〜5人のグループでやってきた。

なんだかよくわからないまま、伯母さんと母に、

「この人達が遊んでくれるから、遊んでこい」と言われて従妹たちと公園に行くことになった。

 

皆ニコニコ笑ってる。面白い事なんてなにも無いのに。

従妹たちは大きいお兄さんやお姉さんに夢中になって遊んでもらってる。

1人でボーッとしているわたしに1人のお姉さんが一生懸命ニコニコと笑いかけながら話しかけてくれる。

いたたまれなくなって、ベンチの足元にあるアリの巣を壊す。棒っきれでほじくり壊す。お姉さんはニコニコしながら、一生懸命遊びに興味を持たせようと話しかけてくる。

「おしっこしたいから帰る」と言うと、公園のトイレを勧められたけど、家ので無いといやだ、おしっこしたら戻ってくると言って私は逃げ出した。もちろんもう戻るつもりはなかった。

 

家には戻らず(戻ると怒られるかもしれないと思っていたから)、あの人たちにみつからないように近所をグルグルと回っていた。ずいぶん長い時間が経ったように思ったので、こっそりと公園へ様子を見に戻った。従妹たちと同じ時間頃に戻らないとまた親に怒られると思っていたので。

 

公園に戻るともう従妹たちの姿はなく、あの人たちだけがいた。

あの人たちは男女で楽しそうに、さっき子どもたちと遊んでいた時よりももっとのびのびと楽しそうに円陣でバレーボールをトスしあいしていた。

困ったような笑顔だったお姉さんも、全然違う大きな笑い声をあげていた。

それを見て、あー良かったなあ。と思いながら家に帰ると、やっぱり親には怒られたんだけども。

 

 

もうずいぶん大きくなってから、あの時の彼らはなんだったのか母に聞いた。

「あーあったな、そんな事。あれはああいう場所の子どもたちと遊ぶボランティアをしたいっていう大学生の子たちだったよたしか。まあ、あの辺りに住んでるのは大抵貧困家庭で、片親だったり、親がいても子どもと遊んだりなんてしない人が多かったしね。

で、そういう子どもたちと遊んであげたいんですーって話だったと思う。」

 

…なるほど、そういう人達でしたか。ボランティア活動とかのサークルだったのかなと今の知識と照らし合わせて思う。

けど、あの時のあれは1回きりのことで、あのあと従妹たちに聞いても、またやってくる事はなかったらしい。わたしはあれが嫌でしばらく従妹の家には行きたがらなかったというのにw

 

「ボランティア」を全てその1回と同じように見てはいけないと思うし、あの時のあれだってとても良い活動だと思っている。

けど、ボランティアを受ける側だったわたしからすれば、あのあとのバレーボールをしていた彼らの清々しい笑顔には彼らが「善いこと」をした満足感の共有があって、そこに受ける側だったわたしは入れないんだなあという隔たりを残した。(逃げ出したくせに)

そしてそれが1回きりだったということで、余計に冷めてしまった。(嫌がってたくせに)

 

 

自分のやりたい時にやりたい事だけやるボランティアの人の笑顔はとても輝いている。なぜならそれは楽しいから。もちろんこちらは助けてもらって、そのうえ楽しんでもらえるのはとてもありがたい事だと思う。

けど、ある日ニコニコと笑いながら

「もう自分は別の用事があって来れません、さようなら」と言われたら…と考えたらとても怖い。

ボランティアは無料の善意なんだからあてにするな、と言うんだろうか?

あてにできない手助けって必要なんだろうか?

ある日突然消えるかもしれない杖に体重を乗せられる人がいるだろうか?

体重を乗せる方が悪いんだろうか?無料なのに厚かましいと?

 

ボランティアが強制になる事態はもちろんマズい。でも自分のやりたいボランティアをやりたい時だけやるために、継続を考える統轄組織を批難するのはどうか。自分の善意だけが正しくて、他はすべて間違ってるのか。

 

善意のボランティアを責めるつもりは毛頭ないけども、その時限りの善意を行う人はそりゃあ楽しいでしょうね、と言いたくなる。

差し出されたり、無くなったりする諦めを感じるのは受ける側だけだから。