子どもの知能指数
昨夜、Twitterで流れてきた知能指数についてのおはなし。
そのtweetによるとIQ80前半では平仮名は読めても勉強は全然、生涯にわたって支援が必要とのことなのな。
これに対して「そんなことない!」という反論をするつもりはないんだけど、子どもが4〜5歳くらいで発達テストを初めて受けられて、その数値が70〜80と出た保護者さんがあのtweetを見て、将来をとても悲観するんじゃないか?ということが気になったので、ちょっと書いとこうと思った。
それと70〜80前半って「え!そんなに?」と自分自身驚いたことw。
それで疑問もまとめて書いとこうと思ったのね。
えぇ。うちの子、ちょうど70〜80前半が2人いるので。
2人とも発達テストは2年以上の間隔をあけつつ、何度か受けている。
その度に数値は動くけど80後半以上に上がった事はない。発達的にいうと半年から1年半の遅れ、と言われた事がある。
そんな2人は今どんな状態かというと、上の子(80前半)は高校生。偏差値は50ないくらいの学校で進学を目指すクラスで平均点くらいをとってくる人。
塾には行ってない。受験前に個別指導タイプの塾に半年通った(週1ペース)。
あとはたぶん日本で1番売れているかもの通信教育。
下の子(70前後)は小学校高学年。普通クラスで過ごしている。通級指導(週1時間)を受けている。成績は中の下、くらいかなあ。普通授業は受けられるし、間違ってはいるけど一応理解している様子。テストの点数は50〜80点くらいが多い、かな。
こちらも塾などは通っていない。通信教育で算数だけ。
学業成績でいうとそんなに低くはないのかな、といった感じ。
ただし、じゃあなにも問題はないのかというと、昨日リプをもらって「そうそう!」と思ったのが『論理的思考が苦手』ということ。
これは皆に当てはまるのかどうかは解らないけど、うちの子たちはそうだ。
なので、小学校の理科社会は時折壊滅的な状況になる。
「考察しましょう」がその原因。◯◯が〜の時、どうなると思いますか?という問題が続くと、もうチンプンカンプン。思った事を書けばいいんだよ?と言ってもダメ。
「え?なにも思わないよ?」となる。…思えよコノヤロウ!と言ってもダメ。
だから、本質的には勉強には向いていない、とは思っている。
ただ良いのか悪いのか、今の学校のテストは大抵記憶で答えるものが多いのである程度の点数は取ってこれるけども。
何かを知って、深めていくようなタイプではないので、思考をこねくりまわすような遊びはしない。
それを悲観して考えるかどうかはその人次第だと思うけど、わたしは利点もあると思っている。この子たちはあまり深く悩まないので幸福感がたやすく手に入る、とか。もちろんこれも良し悪しだけどw
ただ生涯にわたっての支援を考えると、やはりある程度は必要だなあと思える。
例えばキャッチセールス的なものによく引っかかりそうだし、騙されやすいだろうと思う。言葉の裏を考えたりする事はほぼないので、人間関係でのトラブルや混乱は多かれ少なかれあるだろうし、その事を相談したりできるだろうかとか。
見通しが立てにくいタイプなので、目先の幸福感や快楽にハマりやすいからそうした事を注意してくれる人が身近にいてほしいとか。
そんな支援を70〜80前半で公的に受けられる事はこの先あるだろうか?と考えると、たしかに悲観的な考えになってしまう。けどそれは4〜5歳のお子さんにとってはまだまだ先の事だし、それが公的な支援策として出来なくても、ある程度は今ある方法で対処していける事だろうと思っている。常に先人の保護者さんたちがいて、今はネットで情報を公開してくれている人も多い。実際わたしも色々な知恵や情報に励まされてきたし助けられたと思っている。
IQが70〜80としても、それがイコール「生きにくさ」につながるわけではないし、それなりの苦労はあるけど、それはIQが100以上でも苦労のない人生が保障されるわけじゃないよねーと思ってる。
いやそりゃIQ200とか言われたらなんかものすごい能力者みたいな気がして嬉しいんですけどもw でもそれはそれで国家に狙われたりして大変そう(漫画か!)だから、いいわーとも思うし。
あーえーと、で、わたし何が言いたかったんだっけ?すぐにとっ散らかるからダメねー。
あ、そだそだ。それでわたしなりに思った発達テストの結果、というもの。
上の子は項目ごとの差が50くらいあったりするのな。その平均を取って80くらいになるわけで。そうすると能力の得意な部分で不得意な部分を補ってるんだなーというのがわかる。意識してはいないだろうけど、生活全般がそういう感じなんだろう。と、すると平均値の80はあまり意味が無いんじゃないか?と思ったのね。
目安としてはいいんだけど、医師や手帳の認定を出す役所ではない、保護者のわたしにとって、平均値はあんまり意味ない。
でも発達テストで見える「得意なとこ」「不得意なとこ」は育児していく・関わっていくうえでとても便利なヒントになるので、そこらへんは見えた方がいいなーと思う。
平均値がまったく無意味というわけではないけど、その数字だけに悲観してたらもったいない。1年の遅れがあっても成長はしてるし、その成長を見逃すのはほんとにもったいない。レースは周回遅れでも見所はあるもんだと思う。レースに興味ないままテキトーにゆってるけど多分そうだろ(笑)
もしかしたらわたしの考え方は間違ってるかもしれない。なにせ数字にとことん弱いので。発達テストの見方も考え方も間違ってるかもしれない。半分占い気分なとこもあるから。
けど、でも、あの『発達テスト』というヤツは、子どもたちや保護者を喜ばせたり、苦したりするためにあるものではないと思ってるので。
だから、あれに一喜一憂したり、80前半っていう数字で子どもの将来を決めつけたりする人がいなければいいなーと思った。
そんな早とちりと勘違いするのはわたしくらいかもしれないけど。(-ι- ) クックック
に、しても80前半にも色々あるやね。項目のバランスが違えばそうなのかもしれないけど、やっぱり>平仮名が読めても勉強は全然、っていうのは不思議。
うーん、他の人(70〜80)の話を聞いた事ないのでわかんないや。
ボランティアする人の顔は輝いてる
イヤミでなく。
あれは小学校1年生になったかなってないかの頃。
従妹の家に遊びに行った時の事。
その家はいわゆる低所得層住宅・被差別部落という場所にあった。簡単に言っちゃうとスラムみたいな場所。まあ色々なものをあそこで見たなあというのは覚えてる。
そこへ普段見慣れない若いお兄さん・お姉さんが4〜5人のグループでやってきた。
なんだかよくわからないまま、伯母さんと母に、
「この人達が遊んでくれるから、遊んでこい」と言われて従妹たちと公園に行くことになった。
皆ニコニコ笑ってる。面白い事なんてなにも無いのに。
従妹たちは大きいお兄さんやお姉さんに夢中になって遊んでもらってる。
1人でボーッとしているわたしに1人のお姉さんが一生懸命ニコニコと笑いかけながら話しかけてくれる。
いたたまれなくなって、ベンチの足元にあるアリの巣を壊す。棒っきれでほじくり壊す。お姉さんはニコニコしながら、一生懸命遊びに興味を持たせようと話しかけてくる。
「おしっこしたいから帰る」と言うと、公園のトイレを勧められたけど、家ので無いといやだ、おしっこしたら戻ってくると言って私は逃げ出した。もちろんもう戻るつもりはなかった。
家には戻らず(戻ると怒られるかもしれないと思っていたから)、あの人たちにみつからないように近所をグルグルと回っていた。ずいぶん長い時間が経ったように思ったので、こっそりと公園へ様子を見に戻った。従妹たちと同じ時間頃に戻らないとまた親に怒られると思っていたので。
公園に戻るともう従妹たちの姿はなく、あの人たちだけがいた。
あの人たちは男女で楽しそうに、さっき子どもたちと遊んでいた時よりももっとのびのびと楽しそうに円陣でバレーボールをトスしあいしていた。
困ったような笑顔だったお姉さんも、全然違う大きな笑い声をあげていた。
それを見て、あー良かったなあ。と思いながら家に帰ると、やっぱり親には怒られたんだけども。
もうずいぶん大きくなってから、あの時の彼らはなんだったのか母に聞いた。
「あーあったな、そんな事。あれはああいう場所の子どもたちと遊ぶボランティアをしたいっていう大学生の子たちだったよたしか。まあ、あの辺りに住んでるのは大抵貧困家庭で、片親だったり、親がいても子どもと遊んだりなんてしない人が多かったしね。
で、そういう子どもたちと遊んであげたいんですーって話だったと思う。」
…なるほど、そういう人達でしたか。ボランティア活動とかのサークルだったのかなと今の知識と照らし合わせて思う。
けど、あの時のあれは1回きりのことで、あのあと従妹たちに聞いても、またやってくる事はなかったらしい。わたしはあれが嫌でしばらく従妹の家には行きたがらなかったというのにw
「ボランティア」を全てその1回と同じように見てはいけないと思うし、あの時のあれだってとても良い活動だと思っている。
けど、ボランティアを受ける側だったわたしからすれば、あのあとのバレーボールをしていた彼らの清々しい笑顔には彼らが「善いこと」をした満足感の共有があって、そこに受ける側だったわたしは入れないんだなあという隔たりを残した。(逃げ出したくせに)
そしてそれが1回きりだったということで、余計に冷めてしまった。(嫌がってたくせに)
自分のやりたい時にやりたい事だけやるボランティアの人の笑顔はとても輝いている。なぜならそれは楽しいから。もちろんこちらは助けてもらって、そのうえ楽しんでもらえるのはとてもありがたい事だと思う。
けど、ある日ニコニコと笑いながら
「もう自分は別の用事があって来れません、さようなら」と言われたら…と考えたらとても怖い。
ボランティアは無料の善意なんだからあてにするな、と言うんだろうか?
あてにできない手助けって必要なんだろうか?
ある日突然消えるかもしれない杖に体重を乗せられる人がいるだろうか?
体重を乗せる方が悪いんだろうか?無料なのに厚かましいと?
ボランティアが強制になる事態はもちろんマズい。でも自分のやりたいボランティアをやりたい時だけやるために、継続を考える統轄組織を批難するのはどうか。自分の善意だけが正しくて、他はすべて間違ってるのか。
善意のボランティアを責めるつもりは毛頭ないけども、その時限りの善意を行う人はそりゃあ楽しいでしょうね、と言いたくなる。
差し出されたり、無くなったりする諦めを感じるのは受ける側だけだから。
スキンシップ
うちの実家はスキンシップがまあある家だったと思う。夫婦間も親子間も。
両親がチューしてたりとか普通だったし。
相方の家ではそうではなかったらしく、両親が手をつないだのも見た事ない
らしかった。姑・小舅と同居だったしね、照れもあったんだろうけど。
相方は割とスキンシップしてくる。
そして同居の話が出たりすると「嫌だ」という。気ままにスキンシップ
してるのに、ためらったり、気を使ったりするのが嫌なんだそうだ。
たぶん義実家にこんな理由を言っても「そんなことで」と思われるだろうなあ。
スキンシップってだいじだなあと思うのは、肌に触れる事で逆に距離感を
測ってるような感覚があるから。
触れるくらい近いからこそ体温の違いや考え方の違いを意識出来るし、知る
ことができると思うんだよねえ。
近しくない人ほど距離無しでグイグイくるのはそのせいじゃないかなー。
無料より高いものは無し
今日見たニュース。
gooメールの。
無料のものが何と引き換えで無料なのか、ちょっと立ち止まって考えようよ。
と、思うんだけどね。
ネットで遊んでる子たちは無料が無料のままで提供され続けると思っているんだろうか。
Twitterの使い方
あくまで、わたしは、っていう話だけど。
気になったtweetには “お気に入り” でマークしてる。
気になったtweetは好きも嫌いも含めて。けどそれも最近は『同意』くらいの感情でつけてるかな。なんだかなあ〜と思うようなtweetに “お気に入り” をつけて、呟いた人が「自分の意見が注目されてる!」とか思ったりしたら嫌だなあと思ったので。
“Retweet”に関してはこういう事があるんだねーという『同意+共感を求める』が合わさったマークのつもりでつけている。
これでも自分の中だけの事だし、他の人はどうか知らない。知らないし、そうじゃないだろうなーと思ってるんだけど。
“Retweet”しまくるのってどうなんだろう?と思ってる。
自分の言いたい事を140文字でズバリとtweetされる人が沢山いて、それを“Retweet”するだけで、まるで自分のtweetのように思えるのはいいんだけど、でもその選択が右だったり左だったりすると、あなたの立ち位置はどこにあるの?と思うんだよね。
もちろん中間という立ち位置もあるけど、そうでもなさそうな。
ともすれば、右にも左にも炎上のネタを提供しているだけのように見える。
そんなつもりじゃない、という人は確信犯か無神経な人、と常々思っているけど“Retweet”の中身と数はそれをちょっとばかり表してるんじゃないかな?と思った。
…気をつけます、ハイ。
消費増税「賢い選択」も浸透:今日のニュース
10万円分買ったらようやく3千円分お得になるとか…
考えだすとしんどいので、ボーーーッとしてる。
家電はね、洗濯機とかヤバいので買っとけば良かったなーとか思うけど、
もう明日が31日だしね。ただでさえ大きい買い物苦手なのにムリっしょ。
たぶん僕は世界最後の日があと◯日って言われても、ボーーーッとしてる。
テレビとかやってなさそうだし、DSやったり、漫画読み直したりしてるかなあ。
あ、でも車は買い替えたな。家人が。
これは金額が大きいのでアリかと思うけど、買い替えなければお金使わなくて
済んだので、もしかして損したのかなあとボンヤリ考えてる。
うーん、でも近々に車検あったしね。やっぱり買い替えて良かったのかも。
あす日曜日にかけて春の嵐に注意:今日のニュース
荒れるのねえ。
うちの近所の桜はまだまだ1分咲きにも満たないほどなので
散ることを心配しなくても良いけど。
心配しなくても良いから言うわけじゃないけど花粉が全部
一旦リセットされますように!!
水みたいなのがチョロチョロずっと出てて、出過ぎて鼻の奥が
熱痛いですよ。
春の嵐、お願い!